陳さんとの付き合いが私の新興国活動の原点

実は、この一連(仕事は自分で創れ)のブログの1回目は、CHEN(陳さん)のことを書いた。2009年1月のことである。



私が、人生で一番長く付き合っている元新興国出身の友人である。今は米国人だが、彼と知り合ったのは今から33年前。平成元年だ。

私が社会人になって2社目の会社に転職した26歳の時である。


神戸の小さな技術系エンジニアの人材派遣会社。私は、新設するソフトウェア開発の部署を任せるという誘いに乗って、この小さな会社に決めた。


実は、転職活動している中で、IT業界は活気づいていた事もあり、大手の会社も幾つか受けていたが、最終的には、小さい名もない会社に転職した。


この判断が私の人生の転機になったと思う。

私が入社して間もなく、社長から“今度、中国人とマレーシア人の研修生が来るから面倒見てね”と言われた時の驚きは、表現するのは難しい。


その時の記憶は薄れているが、その当時の私は、典型的なその日暮らしの会社員で、まだ、学生時代のノー天気気分が抜けきれない時期だった。


私は、転職の際に、社長からポートアイランドの社宅を用意するからという口説き文句にまんまと乗っかって転職を決めた訳で、特に何か強い動機や目的があった訳ではない。


せいぜい、自分が好きなようにITの仕事ができる。まあ、しいて言えば腕試しができる程度にしか思っていなかった。それと、大きな会社は嫌だなという感覚的なものもあり、小さな会社でのんびりやろう。こんなことを普通に考えている会社員だった。


会社員といっても、組織に属したいわけではなく、個人で何かする意識は高かったと思う。ただ、この時はまだ、独立しようとは明確には思っていなかった。

そういう自信がある訳でもないし、働きだして5年目ぐらいなので、何も定まっていなかったと思う。

自分でいうのもなんだが、今の私と比べたら、別人で、青い鳥症候群だったかもしれない・・。


そんな私が、いきなり、1人の日本人と、中国人2人、マレーシア人3人を部下として面倒見る生活が始まった。

最初は、イスラム教徒のマレーシア人3人との日常が未体験の連続で、毎日が新鮮で慌ただしかった。


打ち合わせ中でもお祈りの時間が来れば、彼らは屋上に向かった。また、スーパーで買い物にも付き合った。食べてはいけないものが含まれていないかをチェックして欲しいという。また、断食の期間も経験した。彼らの見えるところ食べないことを日本人の社員で気を使った。こんな些細なことから、今でいう異文化体験が始まった。


結論からいうと、こういう感覚が結構肌に合うというか性に合っていることに気づいた。もちろん、それは、自分で31歳で会社を興した頃、後になって鮮明になったことではあるが。


中国人の二人のうちの一人が陳さん。もう一人は女性だった。実は今、陳さんはFacebook勤務でブレインワークスの社外取締役である。


この30年以上の間には、紆余曲折色々あった。有限会社ブレインワークスとして31歳の時に創業した。陳さんは創業メンバーでもある。


私は、陳さんと創業間もなく衝突したことがある。ある日、陳さんがカナダに移住すると切り出したからだ。私としては、折角一緒にITの会社を始めようとしていたタイミングで、“そんな勝手な”と開口一番言ってしまった記憶がある。若者同士、ちょっとした口論になった。私が31歳、陳さんが29歳の時のことだ。


未だに、この時の自分の見識のなさ、視野の狭さは反省している。その当時の中国人にとって、日本に覚悟して出てきて、中国に帰る道はほとんど選択肢としてはなかった。では、その当時の日本がどうだったかといえば、日本で中国人が働いて安泰に生活できるような土壌もなかった。


いくら私が、一緒にやって成功しようといっても、何も実績もなく、よちよち歩きの会社では説得力もなかった。新興国の人の立場に立って、考えれば、当然の選択だったのである。


その後、陳さんは、ネットワークの世界的な大企業シスコでも活躍。今に至るのである。

そんな訳で、ブレインワークスは創業時から陳さんと常に関わってきた訳である。


巡り巡った不思議な縁。

彼は、本当に温厚な性格で、誠実な言動にいつもほっとする。

彼の本拠はカリフォルニアだが、今後、オンラインも駆使して、ベトナム、アフリカなどでの連携も楽しんでいきたいと思っている。


以上

近藤昇オフィシャルサイト

株式会社ブレインワークス 代表取締役 近藤昇