人間の多面性について思うこと

この年になって改めて、人との付き合いは奥が深いと思う。

そもそも、仕事やプライベートでお付き合いしているとして、本当にその相手の事を心底理解できているのだろうか?と思うことが日常茶飯事だ。


馬が合うかあわないから始まって、類は友を呼ぶ、同じ穴の狢、一期一会、袖すれ合う縁も多生の縁・・・などなど。人間関係を表現する言葉は数えきれないと思う。


他人ごとみたいなことを言いたいわけではないが自分自身もそういう人間関係の一構成の一人だ。

例えば、本音と言う言葉がある。反対は建前だ。

本音と建前の使い分けが過ぎると、人間関係を損なうと言うか、信用されにくい人物のレッテルを貼られやすい。

しかしこれも良く考えてみると、そもそも本音と言うのは永久に自分以外からは分からないのだから、どうやって本音と建前のギャップが自分以外の人に分かるのだろうか?という考えもある。


ジョハリの窓という心理学的な考察のやり方がある。私もブログに書いたことがあるが、この中には、自分が知らない他人が知っている自分というのがあり、これは人間力を磨く時の肝だと思っている。その通りに解釈すると自分の本音すら気づいていないことは多々あり、外から接する人は、態度や表情、ふるまいで、当人の本音を察することが出来るのではと思ったりする。


実際に、私はどちらかで言うと、直球勝負で通しているが、自己否定するわけではないが、どこまで、本音で人と接しているかは微妙だ。

少なくとも相手によって本音の出し方は変えているし、そもそもビジネスの場面では、やはり、本音と建て前には常にギャップがある。ビジネスでは演じることも大切なスキルだ。


では、嘘をつくということはどうだろうか?

これにも色々ある。嘘も方便というのもある。本当に人をだましたり貶めたり、特に犯罪になるような嘘はご法度だ。

だけれども、日常生活などは特に嘘も方便の事例など沢山ある。例えば、良くないことが発生して、発生時点では伝えるのをやめておいて、後日伝える。こういう配慮は人間関係の基本だ。


また病気の告知ということもある。インフォームドコンセントと言われるが、本人が言って欲しいという意思表示があれば別だが、家族は知っていても本人に知らせないことも多々ある。こういう風に考えていくと、やはり、誰にでも一過性の秘密は沢山あると言える。


話を更に深めると、私は人間の秘密ということにとても関心がある。誤解のないように書くと、知り合いの秘密をとことん知りたいという意味では全くない。


そうではなくて表面上での会話のみで、その人の性分や本質、そして経験を判断してはいけないと思っている。もちろん、私にも一生秘密にしていることも幾つかある。山のようにあったら身が持たないが、誰にでも少しはあると思う。もちろん、そうでない人もいると思うが。


そして、この秘密にしても例えば20歳の時は一生秘密にしておこうと思っていることがあっても、50歳過ぎたら、そうでもなかったりして、誰かに話したり、どこかで書き物にしたり。こういうこともある。


例えば、すでに特段私だけの秘密ではないが、私が小学校低学年の時の女性の担任の教師に“注意散漫精神ガタガタ病”と通信簿に書かれたことがある。当時、これはもちろん親は知っていたが、それ以外は多分私しか知らなかった。


30歳過ぎてから、だんだんと周囲に話しするようになり、10数年前には本にも書いた。

要するに、その意味が理解できるようになり、むしろ肯定的にもとれるようにもなったからだ。

これは自分自身の変化もあるが、世の中の変化もあると思う。


そんな風に考えていくと、王様の耳はロバの耳の童話ではないが、墓場まで持っていく話というのは、実は密かに記録に残しておくと楽しいし後々役に立ちそうにも思う。

絶対に情報漏洩できない仕組みが確立されたとして、自分の秘密を記録しておく。

例えば100年後に開放しても良い、あるいは1000年後でもよい。しかも、聞かせても良い人も自分が決められる。現実的には子孫という事になるかもしれない。


こんなことが起っても不思議ではない時代の人間の多面性を考えると、また、日々の人との接点が楽しくなる。不思議なものだ。


以上

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株式会社ブレインワークス 代表取締役 近藤昇