“感じるメディア”の創造を目指して

“感じるメディアを目指して”

去る2月23日、私が運営する出版会社(株)カナリアコミュニケーションズが主催した第2回カナリアフェスタ。
私の挨拶のスピーチのタイトルだ。

“感じるメディア”は聞きなれないと思う。現在、商標申請中だ。

カナリアフェスタは、カナリアコミュニケーションズから出版した著者の皆様や制作の関係者、これから著書を計画している方、本に関心が強い方などが集まり、出版の価値と新たな役割の創造を目指して去年の12月から開催している。今後も定期的に開催する予定だ。

フェスタの様子は、こちらからご覧いただけます。

振り返ると早いもので、出版会社として誕生して20年近く。事業プロデュースや新興国ビジネスを手掛けるブレインワークスと共に歩んで来た。

カナリアの役割は、時代に警鐘を鳴らすこと。

そして、ブレインワークスと共に、起業や社会が時代の変化に適応するべく“時代を牽引する”役割も担っている。

健全なメディアとして外連味のないコンテンツ制作と表現を心がけてきた。

今、世の中は情報やコンテンツが溢れている。

パンデミックと揶揄されるように、ネットの世界と相まって、情報やコンテンツは境目もなくなり、玉石混交の様相を呈してきた。この混乱や不健全さとの同居は加速するばかりだ。

美味しいものを食べ過ぎると、食感や感動がマヒしてくる。こんな時、たまに、子供の頃味わっていた質素なものが欲しくなったりする。

これと同じように、昔以上にメディアに対する接点機会が増大している私たちは、お腹いっぱいだ。美味しいものもおいしいと感じれなくなっている。

メディアも食欲と一緒で、お腹がすいてこそ味わえるというものだ。

そして、脚色のない、ひねりばかりでない、ピュアな生情報、本当の話をスマートに表現されたもの。こんなコンテンツを欲している時代である。

感じるという観点で言えば、美味しいものを感じる。コンテンツや情報をすばらしいと感じる。この根っこは感性であり人間の本能かもしれない。

そういう意味では、生きる力は、貧しいアフリカの新興国の子供たちに強く感じるように、メディアに対しても、どん欲で、ハングリーな状態になある新興国の人の方が、感度は良いと思う。

私は、仕事の場で、情報感度を磨けというテーマで本をまとめつつある。

この根っこは、感じるメディアと一緒である。

時代は大きく変わりつつある。

メディアは、今までのようにマスメディアで一般人にとっては日常とは別の存在だったものが、個人個人が自由に表現し、コンテンツや考え、ノウハウや生きざま、生活の知恵などありとあらゆるものを発信できるようになった。

企業に比べて、外連味のない内容が多くなったことは歓迎だが、メディアの発信者が複雑系になった分、情報の発信源の見える化が出来なくなった。

そして、多様な意見が飛び交い、情報がつながる。例えばSNSのシェア機能一つとっても、拡散や影響のスピードが今までの時代とは違うのは明らかだ。もうすでに、一個人の能力で手に負える時期は過去のものなのだ。

必然的に量に対する対処や複雑系のキュレーションなどは、ITの力を借りる時期に来ている。それと言うまでもないが、AI君をどう活用するかの時代だ。

こういう役割分担の中で、人間はどうすればよいか?

感じる力を呼び覚ます。磨く。

それに対して、メディアは適応していく。こんな感じが健全ではないかと思う。

そういう意味で、シンプルに聴覚と創造力だけに、聴く側が頼る音声のみのラジオメディアというのは有力だと思う。

clubhouseがちまたで流行っている。

これは、雨後の筍のように生まれるSNS乱立の流れだと考えているが、行きつくところは、出版が紙の本に回帰しているように、ラジオも従来のラジオに回帰するのは間違いないと思う。

以上