なぜ人間は自分が出来ていなことでも人に言えるのか?
有言実行と言う言葉がある。
不言実行でもよい。
何事においても実行している人の言葉は重みがある。
コンサルタントという職業がある。
私はそういう肩書で名乗ったことはないが、結果的にはコンサル的な仕事も数多くしてきた。
私は、自分が出来ていることを前提で、人様のお手伝いをしたい。
だから、ペースメーカーと自称してきた。
一般的に、コンサルタントの仕事は、自分が出来るかどうかは別である。
仮に自分が誰かににアドバイスしたりノウハウを教えたりしたからといって、自分がその通り出来る訳ではない。
だから、結局、自分ができなくても人にアドバイスやノウハウを伝授して、相手が結果を出せば、コンサルタントの役割は果たせる。
スポーツの世界で考えてみても、面白い。
名選手は必ずしも名コーチではない。これは野球でもゴルフでもどんなスポーツでもそうだ。
こういう風に考えてみると、人に対してアドバイスしたり何かを教えたりする人は、極端な話、自分が全く経験がなくても良いのではないかと思う。要するに、相手にとって修正ポイントや改善点を的確に指導できれば良い。
マンツーマンで、教える相手のあるべき姿が見えていれば出来る。コーチの役割とはそういうものかもしれない。
では、これを上司部下の関係に置き換えて考えてみる。
例えば、報連相ができない上司が部下に報連相をさせることが出来るのか?
私の経験上、これは結構成り立つ。
上司としては、部下にやらせるだけだから、意外と簡単にできる。だが、これでは、部下は納得しないだろう。
先ほどのコーチの話に戻ってみると、例えばゴルフ界のスーパースター、タイガーウッズのコーチはどう見てもタイガーウッズよりも実際のプレーの実力では劣る。しかし、コーチ業は立派に務まる。
仕事上の上司部下の場合は、部下から見たら、上司は、自分が出来ていることを部下に指導なり教育していると思っている。自分のことはいい加減な上司から報連相をしなさいと言われても、本音では聞く気にならないだろう。
しかし、理想通りには組織運営は出来ないのが普通で、今一つの上司など、どこの会社にも沢山いる。組織運営の観点にだけ立てば、言うだけの上司も必要な時もある。
仮に、組織で、自分が出来ていないことは、部下には指示しない、指導しないとなると、組織は崩壊する。完全な上司しか、組織上の上に立てなくなる。
一見妥協にも見えるが、組織を円滑にする上では不完全な上司も上手に使う必要が出てくる。
それにしても、自分がするよりも人に言う事が簡単であるのか?
という問いに対しては、人に言う方が簡単であることは明白だ。いわゆる理論と実践の違いだろう。結局どんな世界でも実践できる人は全体の10%から20%。
理想で言えば、実践できて理論も教えられる人がベスト。次に役割として存在するのは、仮に自分が実践できてなくても、理論を教えることが出来る人のは役割は存在する。
ただし、それも会社の方針による訳で、私は実践して理論も教えれる人を一人でも増やしたいと思って、組織運営をしている。
以上
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