テクノロジーの進化は本当に人間を幸せにしているのだろうか?
私のような出張族には、スマホのバッテリーの残量が生命線だ。小型化されたとはいえ、バッテリーを持ち歩くのは大変だ。特に飛行機乗るときには要注意だ。海外で、離陸間際の飛行機から降ろされたことがある。うっかり、スーツケースにバッテリーを入れていたのだ。このポカはたった一回だが、それにしても、バッテリーに関しては、相当神経を使う。充電用のケーブルを忘れてコンビニで調達したことが何度あることか。
あと、スマホには相当お世話になっているので、文句を言いたい訳ではないが、私の現状の課題をもう少し追加すると、とにかく中毒になるツールだ。
商売としてはお見事だとは思うが、程度問題はあるとしても、スマホ依存にならない人はいないのではないか?とにかく、気になる、触る、操作する。常に何かしている。
それこそ、ガラケーの時代と何が変わったのかを改めて考えている。
実は、私たちの生活や仕事に本当に大切なものは変わっていないと思う。
先ほどあげたワープロの事例だと、ワープロ専用機は、パソコンのワープロソフトに一気に席巻された。カメラも似たようなものだ。ここ20年の変遷をわざわざ書くまでまなく、皆さんも周知のことだが、あっと言う間に、スマホでかなりの写真が撮れるようになった。一方で、昔ながらの一眼レフの高級なカメラは存在している。ただ、こちらはプロや趣味の世界に限定されている。
こんな感じで、無くなってしまったものは、私たちの周りを見渡したらきりなくある。
人間の欲求を満たすために、ある意味、贅沢品には価値があるし役割もある。
できることなら、たまには私も少しは贅沢品を使ってみたい。程度差はあれ、ほとんどの人の人間としての本能的な欲だと思う。
必需品になってくると、今度は不便さや欠点が目につくようになる。
現代を評して、昨日の贅沢品は明日の必需品と語っている人もいるが、このスパイラルは幸せに向かっていると思わない。人間の欲には際限がない。
家電しかり車しかり、日本で使わなくなったものが新興国のいたるところで貢献している。必需品としてではなく、贅沢品としてである。
グローバル化が急速に進展している故でもある。
日本などの先進国の生活ぶりは、新興国からネットで分かる時代だ。自然と欲求もそそられる。
私は、仕事で静脈産業に注力している。
詳しくは別の機会にするが、産業を動脈と静脈にを分けたうえで、連動して考える経済理論である。
そろそろ、現代の人達が立ち止まって、必需品とはなにかを考えてみる必要があるのではないか。人間が自分自身の欲を追っかけすぎて、人間らしさを見失わないようにする。
人間を幸せに、豊かにするための経済メカニズムだったはすだ。人間の欲を満たすために、天井のない進化を続けない限り、未来の人間の幸せは達成できなのか?
一世を風靡した書籍ホモデウスを読んでいると、とても客観的に人間を見つめなおす機会になる。
先進国では、昨日の贅沢品は明日の必需品。
本当の必需品は何なのか?今一度、考えたいものだ。
以上
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