何でもかんでも早ければよいというものではない
どうして人間は、スピードに興奮し魅了されるのだろうか?
競争型のスポーツは皆そうだ。陸上、水泳、マラソン・・・
よく考えてみたら、こういうスポーツはスピードを競うものと言っても過言ではない。
野球にしてもメジャーリーガー大谷選手の球速にワクワクする。
流石にゴルフは飛距離だが、それでも素人の私でも若いときは、ヘッドスピードをちょっと自慢したりしていた。
とにかく、人間はスピードを追っかける。
きっと、チータのような本能的なものだろう。
これと似たような世界がビジネスでも見受けられる。
例えば、昭和のビジネス戦士の時代は特に経済成長のスピードは速かった。それと呼応するかのように出世のスピードもよく話題になった。出世街道を突っ走るイメージだ。
そして最近では、スタートアップという表現で、起業家を短期間にスケールアップせよばかりに世間がはやしたてる。
こういうスピード感覚は、人間の本能的なものを刺激するモルヒネといったら言い過ぎか。
この反対の言葉を考えるとすると、すろーになるが、ゆったり、ゆっくり、マイペースと言った感じだ。
コロナ禍の最中で経営者の価値観がかなり変わりつつある。それは目が覚めた。という感覚だと私は思っている。
私自身も周りの経営者仲間の方々も、何が変わったかと言えば、立ち止まって考える時間と機会が出来た。
人類が克服はするとは思うが、長い歴史で見れば、まさに今起こっていることは抗えないものにも見える。今までが急ぎ過ぎていたことを悟っただけでも大きな変化だ。
それこそ、よく、車のスピーで違反の戒めで言われてきた事がある。
こんなに狭い日本、そんなに急いでどこ行くの?
私もそれなりに車を運転するので、今でもやたら飛ばす人に遭遇することも多い。
決して、私が優良ドライバーとは自慢ではないが、若い頃よりはとても落ち着いて走っている。
それを指示器も出さずに、追い抜いていくドライバーも後を絶たない。私は今はややこしい時代でもあり、自然に道を譲るが、そんな時に限って、5分ほど先の信号機で追い抜いて行った車に追いつくことがある。
なんとも不思議な感覚である。人生に例えれば、やはり、私たちが子供の頃に教わったウサギと亀の話である。
どうも私が創業時から腑に落ちないのが、起業すると急成長するのが当たり前だという風潮の世界があることだ。まるで、射幸心をあおるゲームやマネーゲームのような世界だ。
すでに以前のブログで書いたが、私もそのブームに創業間がない頃の数年は乗っかりかけた。
今となっては、危ないところだったと思う。
なぜなら、今やっていることが、創業時やりたかったことであり、自分のペースを取り戻したから到達した場所である。
私は、経営をすると同時に、子供たちの未来に責任を果たすべきだと考えている。
健全な経営者は当たり前にそう思っているが、今始めないと間に合わないと思う。
すでに人生100年時代。そんなに子供をせかして受験戦争に追い立て、よその子との競争意識を過剰にあおり、あげくは子供を疲れ果てさせている。子供に自由度がなくなってしまった。
私の持論は子供がレールに乗りたいことは乗る。外れたいことは外れる。レールを自分で創りたいことは創る。そして、どれも自由自在に変えることが出来る。線路の路線を切り替える話ではなく。広大な大地を自由自在に進むことが出来る。こんな子供の環境を創る気満々だ。
最後に、私が大事にしていることを一つ書く。
それは、俊敏である。ということ。
ゆったりしているが、いざとなれば俊敏である。
一見両立していないように思うが、調和できることである。
簡単に言うと、結果を急がない。急成長してもしなくても人生は100年もある。千里の道も一歩から。コツコツと継続的に進む。
人生にスピードオーバーを感じたら、ブレーキをかければよい。しかし俊敏さにはブレーキは必要がないと思う。一歩一歩、コツコツの一つずつが俊敏である。
こんな感じである。
今でもそうだが、私は、することが早いねと言われることがある。しかし、それは俊敏なのであり、別に早くはないのである。と、自分では思っている。
もう30年近く経営している。流石に早いわけではない。今でも俊敏ですねと言われると何よりもうれしい。言い方を変えれば、プロアクティブというのも近い。気づいたらにすぐ動く。これは本当に小さなことの積み重ねだと思う。
以上
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