記録の時代にフェイクニュースは減っていくのか
今の時代は、ITで瞬時に世界に広がると言っても過言ではない。コロナ禍で一躍、注目のキーワードになった感があるインフォデミックで連想しても、感染力、伝染力、爆発力は抜群だ。
この根っこを見ると、例えば、高学歴者や美人が犯罪を犯したり事故を起こすと、メディアがここぞとばかり騒ぎ立てる行動や現象と似ている。
鶏が先か卵か先の議論がここでもついて回る。
日頃、TVの報道系バラエティー番組を非難しつつも見てしまう心理にも近いと思う。
フェイクニュースを見分けるコツはあるのか?
これは完全な解は永遠にないと思う。
いたちごっこなのだ。
とくに、今は記録の時代かつITが地球上を覆ってしまった状態である。まず、どこの誰が発信源かを特定するのは極めて困難である。
例えば、私も子供の頃生活体験した、村社会を考えてみる。ある意味、村の特徴は閉鎖社会である。だからこそ村の外からの情報にとても敏感で、誰から伝わってきたかは分かりやすい。
一方、村の中は噂話が好きだ。私の子供の頃の村の感覚は200人ぐらいだった。それでも、うわさ話、悪口などが蔓延していた。本音と建前の世界だ。ただ、村であるがゆえに、大抵の人が、発信源が誰かは共有していたりした。
極端な事例だが、今は、こういう村の単位がITで世界中につながり、拡がっていきつつある。
村と村のつながりの中にも、新しいうわさ話が生まれ拡がる。
ある意味、すでに、こういう世界では人間の能力を超えたものを作ってしまったと思う。
いずれにしても、現代においても、本能的にでも経験的にも、その情報の発信源を探ることは大切である。それがある程度特定出来たら、その人やそのメディアが信用に値するかどうかである。もちろん、自分の主義主張にあっているとか、好き嫌いが出てくる。
このあたりが、一つの落とし穴で、普段から自分とは合わない、持論と対立する情報や斜陽にも触れておく必要がある。そうしないと、比較して判断出来なくなるとフェイクにハマる。
あとは、盛り上がっている情報の中にはハマらないことである。野次馬になってはいけない。野次馬になって、見ている情報が仮にフェイクでなかったとしても、野次馬になっている自分を後ろで、誰かが見ていることを気付くべきである。
フェイクでない情報に群がっている人に、フェイクをしかけることは結構容易であると思う。群集心理と言うものだと思うが、一つの事に関心を持っている集団は、フェイクにハマりやすいと思う。
私も時間が捻出できれば、仕事からもあり、フェイクニュースが生み出されない健全な社会創りのための調査研究などをしたい。それと、ファイクに踊らされないように、情報リテラシーやメディアリテラシー、コミニュケーションスキルなど色々と学ぶ機会も作っていきたい。こういうゴミに思えるような情報にも触れながら、情報の見極め力を身つけることも大切だ。
以前ブログには匿名の掲示板の話も書いたが、私は匿名掲示板にメリットは全くないと思っている。昔から全く変わらない。真実であろうとフェイクであろうと、匿名で発信したものを信用する考え方を変えることが大事である。いつの時代も、
ITがあろうがなかろうが、特別な場合を除いて、匿名での情報発信には永久に信憑性はない。仮にこの先、AI君かスーパーIT君が、機密データの保持を前提して、デジタル上で情報の発信源は特定しているから安心してください。と言われても、誰が信用できるだろうか?
人間は基本的に動物であるが社会的動物である。人間同士の信用でなりたっている。
情報発信の基本の基本は、実名である。
これを崩さなければ、ITは健全な方に使えるのは間違いなく、フェイクニュースの判別にAI君活用できる時代はもうそこに来ていると思う。
とはいえ、村社会が人間の原点だから、そういう噂話は永久に無くならない。と子供の頃の体験でそう思う。
以上
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